西ノ島ふるさと館内に設置されたこの展示室は、「収容所から来た遺書」の山本幡男氏と戦友達の足跡を中心にまとめた戦争資料館です。戦時の年表、山本幡男氏の遺書、収容所の壁新聞、収容所からのハガキなど、山本幡男氏の遺品を展示しています。山本幡男氏の遺品はスターリンの死後、ソ連赤十字社を通じ家族の下に返還されました。
貨物列車に乗せられて着いた先は、復員船の待つ港ではなく広漠たるシベリアの収容所であった。「ああ、これがおれ達の死場所か。」深い絶望感に打ち拉がれ声を出す者もなく雪の荒野を眺めるだけであった。
これは収容所生活を体験した抑留者の談話である。
終戦時、旧満州、樺太にいた日本軍兵士、民間人はソ連軍によってシベリアに強制連行された。その数は約六十万人に及ぶとされ、飢えと寒さ過酷な労働の中で七万人もの人達が亡くなったといわれている。戦争が終わり、家族への再会を夢見ながら1日も早い祖国への帰還を願っていた矢先の出来事だけにどれだけ無念であったことか。その遣るせない思いを想像すると胸が痛む。
シベリア抑留にまつわる事実が、ノンフィクションとして紹介されたのは、一九八九年のことである。辺見じゅん氏の「収容所から来た遺書」が全国的に話題となりテレビや演劇で取り上げられるようになった。 その内容は地獄のようなシベリア抑留生活であっても不屈の精神を以て人間らしく生きることに徹した山本幡男という男と、彼を慕う同胞が、ソ連の監視網を潜り暗記によって山本幡男の遺書を遺族に届けたという感動の物語である。ソ連から一方的に戦犯( 謀略諜報行為)としての汚名を着せられ、重労働二十五年の刑を受けた山本幡男であったが、彼が収容所で行ったことは如何なる過酷な条件にも屈することなく、抑留同胞に日本人としての心の糧と生きる希望を与え続けたことであった。
西ノ島ふるさと館内に設置されたこの展示室は、「収容所から来た遺書」の山本幡男氏と戦友達の足跡を中心にまとめた戦争資料館です。戦時の年表、山本幡男氏の遺書、収容所の壁新聞、収容所からのハガキなど、山本幡男氏の遺品を展示しています。山本幡男氏の遺品はスターリンの死後、ソ連赤十字社を通じ家族の下に返還されました。
西ノ島の自然と人の暮らしの資料を集めた資料館で、収蔵総数は約2,000点です。1Fの無料スペースは隠岐ユネスコ世界ジオパークについての展示があります。2Fの有料スペースでは、農機具、漁具、生活用具をはじめとした郷土資料や、古代の埋蔵文化財が展示されています。特に漁具は、隠岐ならではの特徴のあるものが数多くそろっています。また、個人収集家の鳥のコレクションも展示されています。
住所 | 〒684-0302 隠岐郡西ノ島町大字別府56-10 |
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お問合せ先 | 西ノ島町観光協会 TEL:08514-7-8888 |
営業時間 | 9:00~17:00(4月~11月中旬) |
定休日 | 上記の開館期間中は無休 |
利用料金 |
大人 300円 高大生 200円 小中生 150円 10名様以上団体割引あり。 碧風館との共通券あり。(400円) |
アクセス | 西ノ島 別府港から徒歩5分 |
山本幡男氏は西ノ島・大山地区にて生まれ、幼少期を過ごしました。大山地区は背後に焼火山を控え、林道焼火線で波止地区と結ばれています。江戸時代は西ノ島における北前船の代表的な風待港で、問屋や船宿があり、大変賑わっていたといわれています。
西ノ島を代表する景勝地「国賀海岸」の摩天崖には、山本幡男氏の顕彰碑が建てられています。平成10年に「山本幡男を顕彰する会」が発足し、顕彰碑建立目標額400万円に対し、2倍となる800万円が集まり建立されたものです。
西ノ島は、島根半島から北東へ約65kmにある隠岐諸島のうちの一つです。隠岐諸島には180あまりの島々があり、そのうち有人島なのが島後1島と島前3島の4つの島です。何億年も続く大地の成り立ち、その上で発展してきた独自の生態系・人の営みから隠岐ユネスコ世界ジオパークとして認定を受けています。ユネスコ世界ジオパーク認定を受ける上で重要になった「大地の成り立ち」とはその独特な地形がつくられていることです。島前3島が一つの火山島だった時代に噴火を繰り返し、現在の独特な形になっています。溶岩が流れ出た島の中央部分が空になって陥没し、間氷期になって海面が上昇したため、海水が流れ込んで湾が生まれました。